東洋のマチュピチュ PART2

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~東平(とうなる)を訪ねて~ PART2

Hoo-JA!・Vol.121に掲載した特集記事、「東洋のマチュピチュ~・東平を訪ねて~」。 読者の皆さんからの反響も多く、紙面を見て実際に「行った」と言われる方も…。「産業遺産」と呼ばれるからには、当然あった「繁栄の時代」。昭和 30~40年代、閉山前でも400世帯以上の人々が暮らした別子銅山の中核「東平」。当時を知る方にお話を聞き、当時の写真とともに、東平の「今昔」を紙 面で検証。

お話をお聞きしたのは、写真を撮影した新居浜市西連寺町の秋山忠市さん(78歳)と、「東平を語る会」の発起人の一人、原茂夫さん(74歳)。お二方とも 東平で生まれ育ち、住友金属鉱山に就職。「銅の山」で働くことに。秋山さんは銅山技師として働き、25歳(昭和32年)まで東平に勤務した。当時では珍し く、また高価だったカメラを趣味とし、当時の東平の写真を多数撮影・保有している。また、原さんは総務部に勤務、同社が設立した私立東平小学校・中学校の 事務職員として、学校関係の仕事に従事した。昭和36年に新居浜市立東平小・中学校と移管した後も、市職員として東平小学校に留り、昭和43年の学校閉校 まで勤務、「最後の東平」を知る数少ない証人である。

写真(1) 東平中心部全景

写真(1) 東平中心部全景

写真(1)は当時として珍しいカラー写真での東平中心部の全景。中央にインクラインが見え、その左には遺構として残る鉱石貯蔵庫、索道停車場が見える。採 鉱施設を囲むように社宅群や、病院、生協など生活施設があり、東平は「山の街」として機能していた。東平と端出場(現在のマイントピア別子)は索道(リフ ト)で結ばれ、採鉱された鉱石は索道を使い端出場へ、逆に端出場から東平へは生活物資が搬送された。
索道に人は乗ることは出来ないため、東平への道のりは厳しかった。市内から遠登志(鹿森ダム付近)までバスがあったものの、そこから今の登山道を約2時間かけて、徒歩で登った。(ちなみに下山時は45分程度)

 

写真(2)電車乗り場と機械修理工場

写真(2)電車乗り場と機械修理工場

写真(2)は東平の電車乗り場と機械修理工場の全景(現在は整地され駐車場)。写真に残る保安本部の建屋と階段は現存し、建屋は「マイン工房」として利用 されている。電車は、やはり今も残る第三通洞(トンネル)を通り、日浦(別子山側)とを結ぶ唯一の交通機関。かご電車で一般の人の利用が可能だった。

 

現在のマイン工房

現在のマイン工房

写真(3) プラットホームと小マンプ

写真(3) プラットホームと小マンプ

写真(3)は小マンプ(トンネル)に続く線路。電車も写真に小さく写る。線路付近には、現在「東平歴史資料館」が建てられているが、小マンプは現在も残り、当時利用された「かご電車」などが展示されている。

 

写真(4) 娯楽場

写真(4) 娯楽場

写真(4)は明治45年に建てられた娯楽場。大正時代の東平は人口も多く、3,600人を超える最盛期。5月の山神祭時には上方歌舞伎が行われた。戦後は 映画上映、楽団演奏会などが開催。また月に一度娯楽場に、時計・衣類・電気店などの出店があり、出始めたばかりのテレビが飛ぶように売れた。現在は植樹が 行われ、入り口の橋だけが当時を偲ばせる。

 

今も残る石橋

今も残る石橋

写真(5) 雪の日の東平

写真(5) 雪の日の東平

東平の冬は厳しく、多い時では50cm以上の積雪も。学校職員だった原さんは、昭和43年2月28日の閉校式の日を思い出す。「あの日は前日から宿直で、 朝起きたら雪の多さにびっくりした。閉校式なので来賓の方もたくさん来る。大慌てで人が通るところだけ、なんとか雪かきした」。 今となっては「大雪も懐かしい思い出です」と、原さん。写真(5)

 

写真(6) 索道基地

写真(6) 索道基地

写真(6)は索道基地。右に荷物を運ぶバケットが見える。東平と端出場の索道距離は約2,700m、途中に数カ所の中継所と、ケーブルが通るトンネルも あった。「トンネルはそんなに大きくなく、索道のバケットから荷物がはみ出ないように積んでいた。新婚さんが嫁入りダンスを索道で運んだ時は、トンネルに 引っかかったのか、東平に着いた時は壊れていた、なんてこともあった」

 

写真(7)インクライン

写真(7)インクライン

写真(7)はインクライン。索道で運ばれた物資を傾斜面を走る軌道(ケーブルカー)で上げ下げしていた。今では遊歩道の一部、220段の階段となり、階段を降りれば鉱石貯蔵庫跡や、索道停車場跡を見ることができる。

現在のインクライン

現在のインクライン

 

 

東平には前述の学校や娯楽場、そして駐在所、郵便局、プール、無料の浴場までもあった。本家の「インカ遺跡・マチュピチュ」は、未解明の謎も多いが、「東 洋のマチュピチュ」は、当時の資料や写真が数多く残る。実際に東平で生活された方には懐かしく、また知らない方には新鮮に映るかもしれないが、今の新居浜 の礎を築いた歴史の一つに間違いない。閉山後、撤去された施設跡には植樹が行われ、「自然」に還っている東平。「森へ還る街」、 これも東平で体感してほしい。

取材協力 原茂夫・秋山忠市(写真)敬称略

 

マイントピア別子HP