新居浜~大阪 60分の「空の旅」

air

昭和の頃、新居浜にあった航空路線

先日(2008年4月)、水樹奈々さんの取材で大阪を訪れたHoo- JA!編集部。新居浜から特急しおかぜで、瀬戸大橋を渡り岡山まで。岡山からは新幹線を利用し、大阪までの経路は新居浜から片道約2時間30分。仮に飛行 機を使っても、新居浜から松山空港、または高松空港までの移動で1時間。やはり2時間以上の時間が必要に…。しかし、新居浜から大阪まで、わずか「60 分」で行ける方法があったのです。「新居浜と大阪を結ぶ航空路線」 。今から40年以上も前、昭和30年代半ばから昭和40年までのお話…。

大阪と新居浜を結ぶ航空路線が初めて開設されたのは、昭和34年。当時新居浜には「空港」が存在した。ただし、「海の上」にだが…。
通常、広い土地が必要となる空港だが、新居浜空港は新居浜市黒島と、大島の間の海上。機体がボートの形で、陸上でも水面でも発着することができる「飛行艇」(ひこうてい)が、新居浜~大阪(伊丹)間を60分で結んでいた。

この航路を開設したのは「日東航空」という会社。日東航空は水陸両用飛行艇を5機保有し、大阪空港(伊丹)を拠点に、西日本各地を結 んでいた。飛行艇の定員は11~12名。開設当初は週に3往復だった新居浜~大阪間の飛行便も、昭和34年4月に1日1往復となり、昭和35年10月には 1日2往復と、大阪への旅程をより便利なものにしていた。

当時、日東航空新居浜営業所に勤務していたのが、日野裕行さん。日野さんは昭和35年に日東航空に入社。当時の仕事の状況を伺った。
「営業職でカウンター業務などを行っていました。また新居浜駅で時刻表を配ったり、旅館にポスターを貼らせてもらったり…。飛行艇到着時は、天候、波の 状態、風向きなど自然条件を読み、5つあった着水ポイントのどこに着水するかを、機長に無線で連絡していました」

 

昭和38年に入社した森千春さんも、「上司から『吹き流しを縫ってきて』と頼まれたことがありました。ポールに掲げた手作りの 吹き流しと四国山脈にかかる雲を見て、機長と状況を交信したり、機長が機内でお客様からタクシーの必要台数を聞き、『○台のタクシーを手配して』と無線で 連絡してくれば、営業所からタクシーの予約もしていました」
飛行艇着水後の降客は、ボートと台船を使い船着場まで行き、また、大阪に飛ぶ乗客も、ボートで飛行艇まで運んでいた。

当時の新居浜営業所内。今で言う「搭乗カウンター」。時刻表や地図が壁面に。 左の箱は無線機。写真は森千春さん。

 

「飛び立つ飛行艇の機長に『重力重心計算書』という書類を渡します。簡単に言うと、乗客の体重は合計何キロ、荷物が合計何キロという計算書なのですが、 これに機体の重さ、燃料の重さなど加えての複雑な計算式となります。この計算が大変面倒だった。しかし、計算書がなければ、飛行機が安全に飛ばないので、 責任のある仕事でした」と日野さん。

機体には「くろしお」の文字が書かれた飛行艇。 「後ろは大島だと思うのだが…」と日野さん。島の手前には砂浜が見える。 大島自体も40年の歳月で、ずいぶん形を変えてしまったそう。

 

当時の利用客は住友関係の重役クラスやその取引業者、伊予三島(現・四国中央市)の製紙会社の社長など、エグゼクティブな人がほとんど。同社の他の空路 は観光地行きが多かったが、新居浜はビジネス利用を見越した航路開設だったのだろう。ちなみに(昭和36年の)航空料金は片道3,630円。当時のサラ リーマンの初任給が13,000円前後。今の金額に換算すると、約50,000円位の航空料金。一般の方にはまだまだ「高嶺の花」だった時代…。
新居浜のステージに立つ芸能人の利用も多くあったそう。森さんは「歌手の日野てる子さんが乗って来たのをよく覚えています。当時、黒島に日野てる子さん の親戚の方が居て、そのお宅で歓迎会をしていました。他に松尾和子さんや、園まりさんも利用されたと思います」 また、「歌手の西田佐知子さん(現・関口 宏氏夫人)は、大阪空港を飛び立った後、飛行艇内でぐっすり眠っていて『新居浜に着いた時は海の上でびっくりした』と、後のステージ上で語ったそうです」 と、日野さん。

 

当時の日野さん(左) 建物には「日東航空」の看板が掲げられている

 

昭和38年には、大阪~新居浜~別府便も開設され、新居浜から別府へも飛行艇で行けるように。こちらは飛行時間わずか50分。大阪~別府の中継地点と なった新居浜では、飛行艇の燃料補給を行う計画も立ち上がり、そのため日野さんは「危険物取扱免許」を所得するように命じらた。各資料によれば、この昭和 38年前後が、飛行艇が各地を結んだ最盛期。昭和37年11月発行の新居浜市史にも「現在ではグラマンマラード機が就航し、黒島~大阪伊丹間を毎日二便制 をとり、近く三便制を実施する準備をすすめている」と記されている。

 

昭和38年頃の日東航空航空路線。破線部分は臨時運行路線だが、 四国、九州、紀州、北陸の各地を結んでいた。

 

しかし、その後の状況は一変。昭和39年9月には、別府便の運行が中止。日野さんが晴れて「危険物取扱免許」を所得した頃には、別府便の運行は無くなっ ていた。また、同年11月に、新居浜の航路は月・水・土の週3便に減便。当初、日東航空は航路自体を廃止する予定だったが、新居浜市や新居浜商工会議所の 要望で、週3便に減便されての運行が存続された。

その理由として、まず航路が採算に合わなかったこと。また「飛行艇」は、全国の航空会社でも使用数が少なく、機体整備の面が難しかったことなどが上げられている。

 

白い機体にブルーのライン。当時では珍しいカラー写真。グラマン・マラード飛行艇。

 

日東航空は昭和39年に、他の航空会社と合併、社名も「日本国内航空」となり、昭和40年9月30日を最後に「新居浜~大阪」間の空路は廃止された。その後、飛行艇の各路線も消滅していった。

日野さんは「今では考えられないような設備の中でやっていたが、お客様からのクレームはなかったし、ゆとりがあった時代だった。また、飛行艇が離水した瞬間は、仕事をしていて満足感があった」と当時を思い出す。

「そういえば、1機だけ深い緑色の機体があった」と日野さん。 モノクロ写真のため黒っぽく写るが、他の白い機体とは違う飛行艇の写真。

 

ところで、航空関係者が使用する「空港を表す記号」にスリーレターコードというものがある。

例えば、松山空港なら「MYJ」
成田国際空港なら「NRT」

実は新居浜空港も、このコードが今もなお残っている。

新居浜空港のコードは I H A

新居浜空港閉鎖後も、大阪や名古屋など、都市部の空港に勤務、平成13年まで航空業界で活躍された日野さんも、「抹消し忘れたのか、わざと残しているのか…?」と、6年間だけ、新居浜に空港があった「なごり」を、最後に教えてくれた。

参考文献/「新居浜の航空路回顧」藤本雅之(愛媛県総合科学博物館)・新居浜市史
取材協力/愛媛県総合科学博物館・日本航空
日野裕行さん・森千春さん(ともに写真提供)